前回の答えあわせから、春江小学校のAEDは体育館玄関においてあります。もう一問の、春江小学校校区内のAED設置台数は、嶺北消防組合のホームページ
(http://www.reihoku-fd.jp/)にある程度はのっているのですが、正確にはわかりませんでした。銀行やショピングセンター、コンビニ等設置してある場所が増えてきました。もし、調べた方がいたら教えてください。夏休み宿題の、防災マップ作成のネタには良いかもしれませんね。
このコラムには時々二宮金治郎が登場します。私には、二宮金治郎の像が子供たちを温かく見守ってくれる守り神に思え、とても気になる存在だからです。さて、二宮金治郎とはいったい何を行った人なのでしょう?
二宮金治郎は子供の時の名前で、本名は二宮尊徳(たかのり)といいます。江戸時代後期、相模国(今の神奈川県)の豊かな農家に生まれました。5歳の時、洪水により父の田畑は土砂に埋まり、家も流され財産をすべて失ってしまいました。金治郎は早起きし山で薪を拾い、夜は草履を作り家計を支えました。のちに父が病死し、母が亡くなりました。金治郎は祖父の家で身を粉にして働き、農業に取り組みました。堤防にアブラナを植え、その種から行燈に使う高価な油を作ったりと倹約にも励みました。20歳になるころには、農業も成功を治め、実家を修復し他人に売ってしまった田畑も買い戻すまでになりました。
働き者で聡明な金治郎は、小田原藩の家老、服部十郎兵衛に依頼により、服部家の再建に取り組みます。倹約を行い財政を立て直し借金を返済することが出来ました。自らは一銭の報酬も受け取らなかったそうです。これにより小田原藩内では知らないものはいないほど有名になりました。その後、さまざまな武家の再建を行ったり、飢饉のときには食料に困っている多くの農民を助けました。
不正を許さず、ごまかしを行う人を罰したり、農家に指導を行いコメの収穫量を増やしたり、また、税の負担を減らすなど、多くの改善・改革を実行しました。
このように、一所懸命働き、公平で勉学に励み、困っている人を助け、貧しくても努力した二宮尊徳は、多くの人から尊敬されるようになりました。昭和の初めには、多くの小学校に金治郎像を立て、子供たちの励みとしました。春江町内でも、大石、春江西、春江の各小学校には、金治郎像が残っています。また、教育研究所敷地内には3体の像が、移設されています。
さて、今回のクイズは、春江町内には上記の計6体の金治郎像の他に、もう1体金治郎像があります。これはどこにあるでしょう?答えは次回。