早速ですが、前回のクイズの答えです。グラウンドの東角にある石碑(昭和9年卒業生 昭和44植樹と記載されています)、玄関前の二宮金治郎像(昭和11年設置)の2つです。春江小学校建設(昭和24年)と比べてみてどうでしょう。建設よりも古いですね。
グラウンド角の石碑は、昭和9年の卒業生が昭和44年に記念植樹を行った際に設置した物と考えられますが、はっきりとした資料は見つかりませんでした。また、二宮金治郎像は、春江東尋常小学校に設置されたものが春江小学校に移設されたものです。春江小学校は昭和24年に新設されたものですが、昭和9年には、別の小学校が、また昭和11年には、別の場所に春江東尋常小学校が存在していた事になります。春江東尋常小学校は、現在の春江東小学校(平成19年4月、2007年開校)とは別の小学校です。では、春江東尋常小学校はどこにあって、現在はどうなっているのでしょう。
遺跡にある石碑を見るときには、設置した年に注意して見てみましょう。きっと歴史を遡るヒントが隠されていますよ。
昭和23年、嶺北地方を中心に福井地震が発生しました。震源は丸岡町付近とされていて、震央とされている場所には小さな石碑が設置されています。地震の被害は甚大で多くの建物が全壊しました。
もともと福井平野は、九頭竜川の堆積物で出来たたため、元々沼地が多い場所でした。地中に多く水分を含む柔らかい粘土の地層が地中深く広がっていて、実際に地面を1m程度掘ると、次の日には、湧き水のため池になってしまいます。福井平野で住宅等を立てる際は、柔らかい地面のため建物を支えることが出来ないので、建物の下の土を、固くする地盤改良工事行うことが多いです。また、大きな建物を建てるときは、地中に建物を支えるコンクリートや鉄でできた杭を打ち込むのですが、重量を支える地盤が無いために、杭を数十メートル打ち込まなくてはいけません。そうしないと建物が重さで沈下したり、地震や強風の際、建物が壊れてしまうのです。
福井平野は地盤が非常に弱い場所と言えるでしょう。
水分を多く含む土に振動を与えると、地面が液体のように変化し強度を失います。『液状化現象』と呼ばています。福井地震の時は、大きな振動のため福井平野では液状化現象のため地面から泥水が吹き上がり、地面は強度を失いました。春江小学校区のほぼすべての建物が倒れてしまいました。強度の弱い木造建築が多かったのも原因の一つです。現在は、しっかりとした基礎や柱・壁・筋交(すじかい)と呼ばれる構造体が建物を支え、地震に強い構造になっていますが、その当時は、基礎も弱く、柱・壁も少ない上に重い瓦を乗せる日本建築の特徴から、地震に弱い建物ばかりでした。国内の建物を地震に強い建物にしようと、建物の最低限の構造の基準を定めた『建築基準法』が大改訂されたのは、福井地震の倒壊率の高さ、建物被害の大きさがきっかけでした。
現在の坂井市役所春江総合支所にあった、春江東(尋常)小学校。元の春江工業高校、現在、福井県教育総合研究所にあった、春江南(尋常)小学校も跡形もなく倒壊してしまいました。前回のコラムで春江小学校の建設のきっかけは、春江町の急激な人口増加のためと書きましたが、当時、すべての学校を立て直す資金が不足していたため、2校を統合した小学校を建設したという理由もあったようです。
ここでクイズです。福井地震当時、ほとんどの小学校には二宮金治郎像が設置されていました。春江東(尋常)小学校にあったものは春江小学校に移設されましたが、春江南(尋常)小学校にあった二宮金治郎像は現在どこに残っているでしょう?答えは次回。