コラム14-太平洋戦争、そして、、、

 昨年(2018年)のコラムを転載しています。

 年末が近づくと一年を振り返ることが増え、今年の亡くなった人を偲んだ番組等が放送されます。人が亡くなることを「鬼籍に入る(きせきにいる)」と言いますが、今年鬼籍に入った人の中に、スタジオジブリの高畑勲監督がいます。数多くのアニメーション作品を残しましたが、代表作の一つに『火垂るの墓』があります。太平洋戦争末期、神戸大空襲で自宅と母を失い、親戚の家に身を寄せる14歳の清太と妹の節子、二人で身を寄せ必死に生きようとしますが、食料不足の折、二人は衰弱死してしまうとても悲しい話です。

 その『火垂るの墓』の原作者、野坂昭如氏は、終戦直前の昭和20年8月頃、兵庫県西宮から春江町に疎開中で、春江で体験した妹の死、配給所で配られたコメを川にこぼしたこと、妹の遺骸を焼いた事等、春江は『火垂るの墓』のもう一つの重要な舞台となっています。

 さて、日本は英米相手に宣戦布告し、昭和16年12月8日に太平洋戦争が始まりました。福井の繊維産業は日本一の産地に発展していましたが、戦時体制に入り、統制経済の中に組み込まれていきました。工場の多くは軍需工場に転換せざる負えなくなり、国の強制的な命令によって、工場の織機は鉄くずとして供出され、銃や大砲などの材料になりました。また、工場そのものは、プロペラ生産などの軍需生産工場に変えさせられました。残った織屋も防空用暗幕とか落下傘の布地などの生産する軍の工場や、政府から命令された量だけ生産するだけでした。働き盛りの男性は徴兵され、労働力は極端に減少し、織機は老朽化してしまったのです。

 戦争が終わる直前の昭和20年(1945年)7月、福井市も爆撃機B29から空襲をうけ、繊維業界は壊滅的な被害を受けました。工場は焼け、同年8月15日終戦を迎えましたが、工場の大半は軍需工場に転換していたり、レーヨンや絹糸などの材料が底をついていて、織物工場の再開は困難でした。
 昭和23年(1948年)6月28日、福井地方に大地震が発生しました。戦災で失ったものを取り返しつつあった多くの工場は倒壊し、倒壊後の出火で再び多数の織機を失いました。 

2019年05月31日