コラム13-春江、織物の歴史②

 今回は、前回に引き続き春江の産業「春江ちりめん」の話です。

 春江の絹織物発展の様子は、福井市出身の小説家、津村節子さんが書かれた『絹扇』を読んでみるといいでしょう。
 明治21年生れの主人公ちよは、貧しいため7歳で家業を手伝い、そのために学校も満足に通えませんでした。美貌と機織りの腕を見込まれ、大手機料家の次男に嫁ぎます。さまざまな苦難を乗り越え、変化する時代に翻弄されていく芯の強い女性が描かれていて、春江の歴史を追体験出来る名著です。
 ちよには実在のモデルがいて、西畠なついさんという方です。その親戚の西畠順栄さんは、大織物会社の社長で、のちに春江町長を務めました。その織物工場は長さ百間(約180m)という巨大なもので、ちょうど江留上コミセンの前あたりにありました。

 春江では、大正時代に入り本格的に手織り機械から原動機使用の工場に変わり、絹織物の生産量が急激に増大しました。春江信用購買販売組合を結成し品質の向上に取り組み、外国の信用を得ました。そのころには絹織物は日本の主要輸出品となっていました。羽二重からフランス縮緬、紋織物など多品種生産地へ変貌を遂げ、さらに生産量も増え、大正8年には原料・製品を保管する巨大倉庫、大正15年(1926年)輸送手段として国有鉄道(現JR)春江駅が設置されています。春江駅からは、輸出用や国内向けの製品が送り出されたのです。

 昭和初期の生糸の値崩れ、恐慌の波を受けながらも、人絹(レーヨンと呼ばれる人工の繊維)なども取り入れ、昭和10年には、織機5200台、従業員総数3300名にも及ぶ大生産を形成しました。織工は賃金も高く、夜になると商店街は人が溢れました。上村(春江町江留上の古い呼び名)は、いつも祭りのようだといわれるほど多くの商店、映画館、劇場などが並ぶ街並みに変貌しました。

 春江の、特に江留上の人口は急増し、子供の教育施設の建設が求められ、現在の福井教育研究所の場所に、昭和10年(1935年)春江南尋常小学校が作られました。豊かな地元経済に支えられ、小学校建設には多くの寄付が寄せられました。二宮金治郎の像や、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の春江南尋常小学校校歌もその一つです。(その後、春江南尋常小学校は春江小学校に統合され、その校歌は一部修正が加えられ現在の春江小学校の校歌になっています。)

 校歌は平成19年(2008年)、世界的に活躍する福井県出身の指揮者,小松長生さんが、春江小学校校歌を編曲し、学校にプレゼントしてくださいました。
 これは2007年9月に「スクールコンサート」で春江小学校に訪問してくださった際に、校長先生から春江小学校校歌のいわれを聞き、大変興味を持たれたからだそうです。春江小学校校歌は、日本を代表する黄金コンビによって作られたもので非常に価値あるものです。そこに小松さんによる編曲が加わり、春江小学校の皆さんは誇りをもってこの校歌を歌ってくれることでしょう。とても楽しみです。

 校歌の1番には「あさみどり 空は晴れて 音に響く広野 日の光 絹と織り成し すがすがし」とあります。美しく広がる田園風景と、光輝く絹織物が織り上げられる音が響く情景が読み込まれています。これからも大切に歌い継がれてほしいですね。

2019年05月30日