コラム12-春江、織物の歴史①

 前回の答えあわせから、2011年の東北地方太平洋沖地震の際、岩手県大船渡市で局所的に海岸から40.1mの高さまで、津波が内陸に遡上したそうです。ただ、記録に残されている範囲での話で、実際にはこれよりも大きな津波が発生していたかもしれません。かなり驚きの数字です。

 今回は、春江の産業「春江ちりめん」の話です。ちりめんとは絹織物の一種で、表面の凹凸が特徴の高級布地です。かつて春江には大きなノコギリの歯のような三角に連なる屋根の木造工場が並び、ガチャガチャと織機の音が響いていた時代がありました。では、織物産業はどのように発展し、どのように衰退していったのか、3回に分けて書きたいと思います。

 昔よりの言い伝えによれば、豊かな水量の九頭竜川は、毎年川の水があふれ米作不作の年があり、冬は深雪で仕事がなく困っていました。天文~永禄年間の昔(今から約470年前)越前足羽郷に小京都を築いた朝倉家の武士が春江に落ち延び、織物技術を伝えたという伝説があります。水害、雪害に悩んだ農民は、農業の副業として、絹織物を織り始めたそうです。
 また、古墳時代の5世紀前半の足羽山龍ケ丘古墳の石棺から発見された繊維片は生糸を原料とする織物でした。一説によれば、2~3世紀頃、大陸から移り住んだ人々が絹織物を伝えたといわれています。また、天平4年(732年)の文献には、当時から綾錦専門の高級織機があったとされています。日本書紀には延喜5年(905年)に越前からたくさんの絹織物が朝廷に献上されたと記されていることから、福井には昔から絹織物や、その生産技術があったと言えるでしょう。

 明治時代になり、福井の農村地方、この地方の女子は、たいてい織子さんになって織物技術を身に着ける風習があり、比較的人手の確保が容易でした。また北陸特有の高い湿度はちょうど絹織物になくてはならない気候的条件で、絹織物が発展する好条件がそろっていました。
 明治21年(1888年)春江町江留上の寺島秀松が、2、3台のバッタン機を設置し、羽二重の試織を始めました。バッタン機とは、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交差させて織物を作っていくのですが、経糸の間を、緯糸の巻いた杼(ひ シャトル)と呼ばれるものを交差させるのですが、手で杼を左右に交差させていたものを、杼に結び付けたひもによって高速に交差出来るようにイギリスで改良された織機です。杼を経糸の間に打ち出す(battant)様子からバッタン機と名前が付きました。この機械の発明により、織物の品質が向上し、織りあげるスピードは格段に向上しました。また、広幅の織物が可能になりました。
 明治23年(1890年) 岡崎利作氏が糸繰機と手織り機械を購入し岡利工場を創業、寺島松平氏、坪金工業、坪内外吉工場、島崎工場などが相次いで起こりました。
 明治40年頃、力織機と呼ばれる機械動力による転換が始まり、さらに生産量が増大していきました。大正6年(1917年)頃の大戦景気、1950年(昭和25年)頃の「(織機を)ガチャンと織れば万の金が儲かる」といった意味の、「ガチャ万景気」と呼ばれる好景気により春江地区は絹織物生産地として飛躍的に発展し、のこぎり形屋根の特徴的な工場が並ぶ街並みに変貌しました。

2019年05月30日